久しぶりに湖畔に佇んでみたくなった。
終わりに近づく北欧の太陽を満面で受けてみたかった。
早くも秋のきざしが感じられるストックホルムであった。
そこは、ここ数年で爆発的な人気を得て、今ではストックホルムの郊外からも若者が集まる湖畔であった。
喧騒に包まれる中、ふと私の注意を引いた男がいた。
黒いくたびれたTシャツと黒いロングパンツ、身に纏う衣服の少ない若者が溢れる夏の水際においては確かに浮いていた男であった。
逆三角形型の後ろ姿が湖からの風を切って悠々と歩いていた。
私は気になってしまい、迷わず後を追った。
男の足取りは速かったがなんとか追いついて声を掛けた。
「チャオ」
男は私の姿を認めて足を止めた。
やはりそうであった。
以前、二年ほど、同じ会社で働いていたコンサルタントの青年であった。
「やあ」
青年は黒いサングラスを外して挨拶を返した。
日本に住んでいた時は、サングラスをしたままで挨拶をすることは失礼にあたる、と教えられていた。しかし、北欧に二十年近く住んでいると、そのような礼節の一つも忘却の彼方に押しやられてしまったようだ。私はそのままサングラスを外さなかった。
青年は育ちが良かったのであろう。
サングラスを外した青年の顔を見て感じた。
ここ二三年で多少老けたのかしら、それとも、もっと若く見えたと思い込んでいただけかしら。前髪に白髪が多少混ざっている。
「どこに行くの?」
「別にどこも、湖畔を歩いているだけだよ。今日は朝から自宅勤務で、今ようやく外に出たんだよ」
あら?
一緒の会社で働いていた時には、時折、彼の吃音に気が付いたことがあったのだが、この時はほとんど気が付かなかった。
彼は久々に生身の人間と話したのかもしれない。
無口な印象を与えていた青年が堰を切ったような勢いで話をしている。
自宅勤務をしているとさらに人と接触する機会も減る。
最近ではスーパーマーケットに行っても機械で支払いが出来るため、その気になれば、誰とも一言も話さなくとも一日が過ごせてしまう。
人と言葉を交わさない一日が一週間になり、一か月となり、ついには仙人のようになってしまうのであろうか。
彼は私が知っている限りの年月、ずっと独りであった。
彼が会社を去った後も、時々、彼の事を考えることが時々あった。
恋愛感情等とは関係がない。青年はかなり年下だ。
「ねえ、一人で暮らすってどういうこと?」
こう訊ねてみたかったのだ。
私も最近、一人暮らしになったからだ。
一人暮らしなど過去何十年も経験したことがない。
いまだに心の準備が出来ていない。
若い時には一人暮らしに憧れている人も多いかもしれないが、長い期間、家族と一緒に暮らしたあとに、前触れも短く一人暮らしを余儀なくされると言うことには心の準備が必要である。
ストックホルムにおいては5人に1人は独りものであると言われている。
そのため一人暮らしをしている人の割合も多い。
知っている限りでは、彼の生活はこのようなものであった。
朝、8時ぐらいにボロボロの軍用自転車に乗って会社に出勤して来た。
そして黙々と昼間で仕事をして、昼には自分で作った豪華なチキンサラダ弁当を黙々と食べていた。
自分の事を進んで語ることは無かったが、訊かれたことには控えめに答えていた。
その彼の返答に依ると週末には数か所の会社で守衛の仕事をしていた。
週末に仕事がない時は愛車の黒いBMWで自然の中をドライブしていた。
お金が必要であったのか、あるいは、孤独、あるいはひまな時間を多少でも減らすためであったのか。
勝手に想像をさせて頂けるのであれば後者であろう。
ITコンサルタントの報酬は、彼の職種であると、かなり高額であるため、へたにバイトなどをしてしまっても、本人の懐よりも税務局に貢献する率の方が多くなってしまう。
さて、私はどうやってこれから暮らして行こうか。
思い掛けず自分一人の時間が出来たのだ。
「ご飯の時間いつ?」
と急かされることもないから退社した後の全ての時間が自分のものではないか。
国際図書館にある日本語の本を片っ端から読んでいくべきか。
一度あきらめたフラメンコを再開すべきか。
面白そうなセミナーに参加してみるか。
新しい技術に挑戦してみるべきか。
ストックホルムのオタクな場所をブログで配信させて頂こうか。
私が黙って自分の世界に入っていたしばしの間、青年は無言で隣で肩を並べていた。
ふと思い出したことがある。
「確か以前、ヘラジカの肉を一切れ分けてもらったわね」
彼は一瞬、驚きの表情を見せた。
「よくそんなこと憶えてたね。僕のお弁当の中に入っていた肉のほんのひと切れだったね」
「とても美味しかったから」
「今度狩猟に行ったらもっと持って来てあげると約束していたね。その後、僕の契約が終了してしまったけれどね」
人々がパンデミックに神経質になっている今の時勢では、お弁当の具を分け合ったりはしないであろう。
ましてはここは日本ではない。お弁当の具の交換など社員同士では滅多にしない。
「あの時は平和だったわね。ほんの数年前のことだったのに」
「本当だね」
「今年は狩りに出かけられるの?」
彼は丁寧に説明してくれたが、その返答は回りくどくて理解が難しかった。
全ての条件が揃ったら今年も行けるかもしれない、というような不確かなものであったと思う。
いつのまにか私たちは湖畔の日没を臨むベンチに腰を下ろしていた。
あちらこちらに、人との距離を明けるようにとの注意書きが貼ってあった。
青年がずっと独りでいる理由は何であろう。
一人の人間が独りでいる、あるいは一人暮らしをする理由は千差万別である。
彼は、一人で暮らすことによる喜びを享受しているのであろうか。それとも心底では誰かと一緒に暮らすことを望んでいるのであろうか。
そして私は、再び、誰かと一緒に暮らすことを望んでいるのか。
私が住んでいる地区は若い人たちが比較的多い。
若い夫婦が乳母車を押しながら夕食の買い物などをしている姿があちらこちらで見られる。
微笑ましい。
と同時に痛い。
青年は情熱を込めて狩猟の話をしていた。
無口の青年がこれほどのめり込んで一つの話題について話をすることをかつて聞いたことがない。
おそらく青年にとっての狩猟はライフスタイルであるのはないかと感じた。
私は殺生は好まない。
しかし、青年の出身地である北の地方では、それが男たちのロマンなのかもしれない。
「ねえ教えてよ。貴方がこれほど長い間、一人で生きていける理由は確立したライフスタイルがあるためのなの?」
私にとってのライフスタイルとは一体何だろう。
青年は再びサングラスを掛けた。
沈みゆく太陽の残光が私達にとっては眩すぎた。
一人暮らしを始めてから十日目の夕方であった。
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